内池陽奈によるコラム「よしなしごと」を不定期にお届けします。
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私は思う。恋とはどんなものかしら。
別に私は純真無垢な少女ではない。かといって、カマトトぶってる訳でもない。
切実に思うのだ。恋とはどんなものかしら、と。
私は今までにみっつ、”恋”をしている。
ひとつめの”恋”は羨望から始まった。あなたのようになりたいと。
ふたつめの”恋”は愛寵から始まった。君を特別な存在にしたいと。
みっつめの”恋”は同調から始まった。君の隣で一緒に笑いたいと。
どの”恋”も、三者三様、全く違う姿形で私の目の前に現れた。
そもそもそのみっつは恋と呼べたのだろうか。
愛と、性愛の違いはわかる。
愛と、恋の違いはわからない。
恋と、性愛の違いもわからない。
いくつの恋を重ねたら、私はそれを理解するのだろうか。
わかりたい、と思う。でも、わかりたくない、とも思う。
素敵な人に盲目的に夢中になって、体の隅々まで満たされて、「恋」がわからなくても、「愛」を心の底から理解できたら、それが一番しあわせなことだと思うのだ。
“恋”をしていないと、私はとても焦る。恋人がいないという事は、その、しあわせな「愛」から最も遠いのではないかと思うのだ。
家族と贈り合う愛は、義務的なものだ。
そもそも家族はお互いに選ぶものではない。自分の意志なぞそこになく、家族だからといって愛せる人ばかりでもない。
友達と贈り合う愛は、複写可能なものだ。こちらにとってたったひとりの友達でも、あちらにとっては複数人のうちのひとり、なんてことはザラにある。
その点、恋人は、自分の意志と相手の意志で決定されるものであり、(私と私の周囲の倫理観で言えば)お互いに唯一無二の存在なのだ。
こんなに素敵な存在はない。ゆえに、私は、私に限っては「恋人」がいないとなにかが欠落しているように感じてしまうのだ。
ここで言っておきたいのは、恋人がいない他人のことを、欠落している、などとは思わないということだ。
自分に限定して、欠落している、と感じてしまう。それは私に自己愛がないからだろう。自分が自分に愛を与えられない分、それを他人から欲してしまう。
私の”恋”はずいぶん自分勝手だ。これを”恋心”といっていいのだろうか。
恋や愛を「自己犠牲の容易さ」で測るのなら、私の恋や愛はとっても大きなものになるだろう。だって、自分の価値が低いから、人のために犠牲を払うなんてことは容易いことなのだ。
こんなにも恋やら愛やらに悩まされるのは、自分を愛せていないからなのか。
もし、自分を愛するという実績を解除しなければ真の意味で他人を愛せないというのであれば、私は一生だれかを愛せないかもしれない。私は今そう思い、これを書きながら絶望している。
ある人の考え方にこういうものがある。
きれいな花を見つけたとき、摘んでみたくなるのが「恋」、水をやりたくなるのが「愛」だと。
私の今までの”恋”はどちらにもあてはまらない。
きれいな花を、丁寧に、丁寧に噛み締めて、咀嚼して、ゆっくりと飲み込んで、おなかのそこにしまい込みたくなる。そういう、どろりとした感情で”恋”と向き合ってきた。私の”恋”は本当はなんというのだろう。依存?自己満?自己肯定?
最近の私はさらに酷い。依存や自己満に加えて、選別も始まったのだ。
「早く結婚して、早く子供を産むのが幸せ」と教育されて生きてきて、嫌とは思いつつ私はその価値観に洗脳されている。
だから、「異性」「経済力がある」などのカテゴリーで恋人候補を脳内検索してしまうのだ。限定された世界の中で恋をして、愛を掴もうとしている。
そして今、目の前に座る「男で」「将来有望な」恋人を見つめながら私は思う。
恋とはどんなものかしら。