内池陽奈によるコラム「よしなしごと」を不定期にお届けします。

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大切、という言葉に、引っかかったままでいた。

小学校2年生の時だったか。「切」という漢字を習った時、漢字練習帳の例題に「大切」という単語が鎮座していた。
「大切」なのになんで大きく切っちゃうんだろう、と不思議に思ったものだった。
当時の私は当時の担任教師を信用していない子供だったので(私のポリシーに一人称が「先生」な先生は信用しない、というものがある。彼女もその一人だったのだ)、その疑問を家まで持ち帰って母親に問うた。

しかし母は、幼子の「なんでどうして」に頑なに答えない人だった。
「辞書で調べなさい」。それが母親の口癖だった。世の中には、物事を間違えて捉えている人がいる。お母さんも、その一人かもしれない。情報は、正しいところから正しく受け取りなさい…、と。
この時も母はいつもどおりに「辞書で調べなさい」と娘の疑問を一蹴した。
しぶしぶ私は当時持っていた小学生用の辞書を取り出しページをめくったが、小学生用故に情報が載っていなかったか私の調べ方が稚拙だったか、納得のゆく答えを導くことができなかった。
当時スマートフォンがあれば「大切 由来」で検索をかけてハイ終わり、だったのだが、1999年生まれの私には当時インターネットというものが人生に組み込まれていなかったので、この疑問の解決は難航したのだ。

それ以来、「大切」という言葉は人生のふとした瞬間によぎる言葉になった。
中学3年生。テストを早めに解きおわり、見返しもそこそこに時間を持て余す昼下がり。
高校2年生。体育の時間に、延々と景色の変わらない体育館の中を走らされている時。
大学1年生。恋人からのくどいキスを無心で受け入れている時。
いつも「大切」が頭をよぎるのはどうしてか、調べ物ができない状態のふとした瞬間だった。

しかしいつの間にか、「大切」を気にかけることもなくなって、「大切」は日常の中に溶けていった。皮肉なことに、スマホやPCを手に入れた途端、私の探究心はなりを潜めてしまったのだ。

そして先日の話になる。それは、恋人のO君(注釈 大学1年の時の恋人とは異なる)とスターバックスに寄ったことが発端だった。
そこで私たちは、各々のドリンク、そして、チョコレートチャンクスコーンをひとつ、買った。
O君がそれを食べたがったからだった。
それを食べる段になって、O君は私にも食べるよう勧めてくれた。齧る前の完全体のスコーンを、好きなだけ持っていきなと私に差し出した。私はスコーンを食べたがっていた彼を想って、スコーンを半分ではなく少なめに割ることに努めた。
そのときだった。「大切」という言葉が頭の中でスパークして、目の前のチョコレートチャンクスコーンと結びついたのだった。
食べ物をわけあう時、相手のことを想って相手の分を「大きく切る」のが、「大切」なのではないかと。
その考えが頭に浮かんだ時、私はひどく満足した。満足して、その考えを生ませてくれた、目の前で大きく切られたスコーンを齧る彼を愛おしく思った。
ありきたりでつまらなくて甘ったるい考えだと自分でも思う。
でも、人を想うって、そういうことなんだろうな、と真剣に思った。
はんぶんこした時、おおきいほうをあげたくなる人。この対象は恋人に限定されたものではない。そういう対象が自分の中で何人かいる。多くはいない。それでもいい、そういう人たちを大切にできる自分で在りたいと、小さな決意のようなものを私はした。

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後日談。納得したとはいえ真偽のほどが気になったので「大切」の由来について調べたところ、私の自論は全くの見当違いであった。皆様もぜひ、正しいところから正しく情報を受け取ってください。